安養寺基立・浄土改宗五百年のあゆみ

     

    羽戸に現れた助心和尚

今を去る四六八年前即ち天文七年(一五三八年)秋の夕暮、
墨染めの衣をまとい戦火を逃れて都から下った托鉢の念仏僧ひとり
木幡を過ぎて奈良道を巡錫下向し、羽戸のあたりにつく。
日もすでに落ちて暗く、それ以上先に進むのも至難であった。
一夜の宿をもとめ、柱なかば朽ち月漏れる古寺にたどり着いた。

時に天文七年のことであった。

それより先に進む予定もなく、この無住の寺に泊まることになった。
戦乱におびえる里の人々に、法然上人の念仏の教えをとき、天台宗の古寺を浄土宗に改宗した。

当時開基の祖、助心和尚、二十五才の姿であった。

*
昭和六十四年開山四百五十年の法会を勤めました。

その時代を理解する為に、もう少し詳しく述べてみることにします。

 応仁の乱(一四六七年)によって、京の都は乱れ盗賊は、
はびこり戦火のため二万戸の家が焼失、山城のあちこちで一揆が蜂起し、
やがて中央政権も衰退し諸国の群雄割拠して世に言う戦国の時代となりました。


京の街は、なおも激戦が続き、諸大寺院兵火に見舞われ、
東西両軍いつ果てるともなき戦乱にまき込まれ
加えるに諸国洪水・疫病の流行とまことに悲惨なものでした。

「公卿、僧多数乱をさけて地方に下る」(国史略)と、
あるように念仏の行者僧助心もそのひとりであった。



浄土改宗と浄土宗のながれ

なぜ、天台宗の寺が浄土宗に改宗されたのか、
疑問に答えるために浄土宗のながれについて知る必要があります。

宗祖法然上人が、承安五年(一一七五年)八百三十年前
「ただ口に南無阿弥陀仏と称えれば何人も極楽に往生し、佛果菩提を得る」
と言う日本における民衆的佛教が提唱されて、
念仏は当時の人々に受け入れられました。

上人の遺弟達も各自が専修の行人として自行化他に励んでおりました。
ここに鎌倉新仏教、浄土宗の出現をみた。
阿弥陀仏のおられる西方浄土は永遠の生命の輝く世界であり、
それは死後にのみあるのではなく、
この世にあって、仏様と一緒の生活をいとなむと言うことが出来ると云うことにあるのです。


この念仏は誰でも、どんな時でも、南無阿弥陀仏と申せばよいのです。
心の静かな時でも、煩悩の起こっている時でも、
その時に念仏申せば、腹立ちもおさまるし、煩悩も消えるのでありましょう。

一切を捨てて念仏に帰すると言うことであります。






宗祖の滅後の浄土宗は教義的にも、各派それぞれの主義を主張し、
個々の勢力圏の維持につとめ、教団的にみても、その依り所となる。
寺院僧侶は籍を他宗に置き、他宗出の人々の下で出家し学問をされたため、
自然に他宗を依り所としてその境内で専修念仏を修する程度で、
いわば諸宗寺院に寄寓念仏修行僧 助心もそのひとりであった。

当時 足利幕府中世以来、浄土宗寺院は数百にすぎなかったが、
約十四万に飛躍発展したのは、徳川時代にはいってからである。


大鳳寺に移る

羽戸の地は中世の近衛家領、羽戸院の一部にあたり
南北に通過せる奈良道を羽戸畷と別称し、
近世初期以前には、その辺りを中心に家が建ちならんでいたことが伝えられている。
「家数七軒、町の長さ三十二間、道幅二間」(庄屋長左衛門届書)
 改宗の祖念誉助心和尚は学徳備わり里人も深く帰依し、
荒廃していた寺も逐次ととのい寺勢も興隆してきた。

慶長十二年四月九日(一六〇七年)九十三歳をもって遷化をとげ、
寂後弟子の助行、助龍が住しその後七代、百九十二年羽戸の地で清栄した。

 安土、桃山時代になり豊臣秀吉の桃山城築城、(文禄三年一五九四年)
宇治川左岸堤(太閤堤)構築によって宇治川の流れが変わり、
毎年繰り返される浸水、享保十五年の大出水により堂宇ことごとく流失した。

永年住み慣れた右岸の肥沃の地羽戸に見切りをつけ、
里の人々と共に高所の大鳳寺の地に移る。

時の僧盤察和尚で、知恩院より中興の号を贈られたことが記録されています。



江戸時代の安養寺

安養寺が羽戸の地から大鳳寺に移ったのは将軍吉宗の享保十五年(一七三〇年)の時で、
茶どころ宇治の主要生産地で、茶師の帰依をうけ格式の高い寺として栄えた。

かくして江戸時代には浄土宗も徳川氏の大なる外護の下、
西に知恩院、東に増上寺と東西相呼応して開宗以来最も華やかな浄土宗の時代が現出した。

大鳳寺とは宇治市菟道東中・西中・藪里あたりで、
この地にあった古代寺院の名によるもので大鳳寺の創建は大宝年間とも言われ、
その開基は行基菩薩と伝えられている。
寺の廃絶の年次は明らかではないが中世を迎えてから衰退の一途をたどり遂に亡び去ったと思われます。

山城名勝誌には「三室戸寺の西北にあり今は寺を廃して村となす」とあります。
羽戸の地に開基して羽戸山・大鳳寺に中興して大鳳院・寺号を安養寺・「羽戸山 大鳳院 安養寺」となる。
幕末から明治維新にいたり、いわゆる廃仏毀釈の大鉄槌を受け明治元年より十年間無住の時代もあった後、
崇林寺・宝善庵・正善院・大善庵の末寺を合併し、
爾来法灯連綿と続き、ここに四百六八年の記念すべき年を迎えました。













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