安養寺                                                                                            安養寺は、西南方向の羽戸の地にあったという言い伝えから山号を羽戸山と称しています。またもとは天台宗で、天文七年(1538)に僧念誉助心が再興してから浄土宗に改められ、現在地に移転したのは貞享二年(1685)といわれます。 境内に祀られる地蔵菩薩は、九世紀半ばの文徳天皇の時代に活躍した小野篁(おののたかむら・802〜52)が刻んだものと伝えます。篁は、漢詩文に長じ、歌人としても著名な人物で、遣唐副使に任じられますが、同行する大使と意見が合わず、乗船しなかったことで、一旦流罪に処せられたという経歴をもっています。彼は俗に「黄泉(よみじ)がえり」(一旦亡くなって再び蘇生すること)をしたことでも知られていて、本像も彼が冥土で実見した地蔵尊の姿を刻んだものとされました。でも、それはあくまでもお話です。地蔵菩薩にはしばしば小野篁作の伝えをもつものがあるのです。








阿弥陀三尊来迎図 一幅 鎌倉時代 絹本着色 縦80.5cm 横38.1cm                                  
 阿弥陀三尊の斜来迎図です。金色像には截金(きりかね)の文様があります。市内にのこる来迎図の優品のひとつです。当寺には25世来誉の時代に収められたと箱書に記されています。





阿弥陀如来立像 一躯 南北朝〜室町 像高77.8cm                                                              
 来迎印を結ぶ、いわゆる安阿弥様の一例です。螺髪に旋毛を刻み、髪際線は中下りになっています。衣文のさばき方は、形式的で固さが目立ちますが、足元の裾の表現には古式を模した様子がうかがえます。崇林寺の旧本尊、両手足先は後補です。光背と台座は、いずれも後補ですが、台座底部に寛文12年(1672)の修理銘があります。








地蔵菩薩立像 一躯 江戸時代 像高68.8cm                                               
 像様の全体から、いわゆる和様とは性質を異にする印象がただよいます。でも、近接する黄檗宗の本山萬福寺にはこれに類する作品を多く目にすることができます。黄檗様の彫刻作品の列に加えてよい作品です。本像の来歴は不明ですが、大鳳寺村の北方小字上野のあたりに福清寺と呼ぶ寺があり、寛文年間(1661〜73)には萬福寺の僧が居住するようになって、黄檗宗に所属したといわれます。近在で地蔵尊をまつる寺として知られる安養寺に、ご縁がありもたらされたものではないかと推測します。






木造地蔵菩薩立像 一躯 平安時代末期〜鎌倉時代初期 像高 97.0p                                                                                                                          
 体は細身で、衣文の数が少なく、すっきりとした像容を示しています。全体に藤原時代の様風をとどめていますが、面貌は表情がやや固く頬の張りが少なく、細みの顔だちには次の鎌倉様式の芽生えを感じます。北向地蔵、延命地蔵の異名をもち、はたまた脚気に効能があるとも伝えられ、住民から慕われつづけた仏さまです。

木造阿弥陀如来坐像 一躯                      
          平安時代(10世紀)                                         
          像高 49.5p                                                               
 定印を結ぶ両手の一部と両足部を除き、頭体の大略を檜とみられる一材から彫出し、内刳も施さない古式の技法で造られています。胸をそらせて、厚みのある膝を張り出して坐す姿態には大像の風格をただよわせます。そのいっぽうで一木像特有の量感表現は控えられ、依文も簡略化されています。こうした傾向は十世紀の諸像にみられ、本像もその類に含めてよいと思われます。後世の補修はあるものの、10世紀にさかのぼる古像は市内でも少なく、貴重な遺品です。台座天板裏には、寛文四年(1664)には正善庵に本尊としてまつられていた旨の墨書があります。












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